花をまつ 心こそなほ むかしなれ         
春にはうとく なりにしものを   西行

京都京北町、常照皇寺の御車返し(みくるまがえし)の桜

 桜にはそのイメージに合う人がいたりする。京の山里ここ京北町常照皇寺には三本の見るべき桜がある。そのなか九重枝垂れ桜は、その優雅さのなかになにかしら淋しさがある風情が、不倫の若い女性と中年男性のカップルにはぴったりだ。そしてこの御車返しの桜は、その姿が枯れてもなんとか花を付けようとする姿から、高齢の方には見てほしいと思う桜だ。後水尾天皇(1613年-1632年)がその美しさに魅かれ何度も車を返して、別 れを惜しんだほどのこの桜も、風雪で枝が折れ無残な姿だが、枯れてはいない。ひっそりと桜を付けるそのさまは、心打たれるものがある。この寺の歴史がそういうものを、より強くするからかもしれないが。あと一本が右近の桜だ。


  朝廷が京都と吉野に並立した14世紀の南北朝時代、もはや天皇位が古代的な諸権を喪失しようとしていた。鎌倉中期から、皇室は持明院統(のちの北朝)と大覚寺統(のちの南朝)に分かれ、皇位 をめぐる争いをし、鎌倉幕府もそれに乗じて優位な立場に立とうとした。大覚寺統から即位 した第96代天皇後醍醐天皇は、討幕軍をおこす計画を何度も企て、1331(元弘1)年元弘の乱によって、後醍醐天皇は隠岐に流された。この際に岡山落合の桜を愛でたと言う言い伝えから名が付いた「醍醐の桜」がある。その後、天皇に即位 したのが持明院統の光厳(こうごん)天皇。しかし、鎌倉幕府に刃向かう勢力はこれを契機に後醍醐天皇の皇子護良親王や河内の武士楠正成が兵をあげ、後醍醐天皇も隠岐を脱出して全国的な内乱になり、ついに1333年に鎌倉幕府は滅亡した。光厳(こうごん)天皇は天皇即位 わずか1年9カ月で後醍醐天皇の建武の中興で廃位をうけ、上皇院となった。そののち出家して開いたのがこの天龍寺派の大雄名山万寿常照皇禅寺だ。後醍醐天皇の建武の中興は、やがて失敗し、光厳上皇は持明院統を救う気持ちから足利軍に院宣を発給し、このことでやがて後醍醐天皇の大覚寺統を奈良吉野に追いやることとなる。そしてこの南北朝の争いは全国的な規模で60年も続いた。常照皇寺の方丈の間に広がる杉戸絵はそんな光厳天皇の心象風景を描いていると、伝えられる。そして、この杉戸の向こうに桜が咲いているのである。縁側から見る桜の光景は、もう言葉ではいい尽くせない。

  桜ひとつとってみて私のように旅をしていても、このように700年近くまえの歴史を知ることとなる。神戸の人で楠正成を知らない人はいない。楠正成が陣をはった神戸市兵庫区の会下山は、いまでは神戸の桜の名所だ。河内(今の大阪府の南部)の武士であるが、彼を祀る神戸市中央区多聞通 りの湊川神社はなんこうさんと言って神戸っ子に親しまれている。最後まで付いた人(後醍醐天皇)を信じ、裏切らず寝返らなかったことから、黄門さまがそれを称賛する水戸光圀直筆の石碑まで湊川神社にはある。石坂浩二さんになっても人気の衰えることのない黄門ちゃま、そう言うパチンコ台まであった、これだけ人気が高いのに意外とそのご本人に関することはあまり知られていなかったりする。また社会の歴史では、その背景となる歴史はなかなか知られていない。ただ、こうしてそれにちなむ場所から、知ることがある。かわいい子には旅をさせよ、とはきっとこのことだ。

*このページの製作年は1999年、データ内容は当時のものです*

撮影は1999年4月16日
場所
京都府桑田郡京北町字井戸
拝観9寺から16時半拝観料あり
交通
JR京都駅からJRバス周山行き1時間半終点下車、
町営バス小塩行きに乗り換え約15分山国御陵前下車
問い合わせ先
京北町役場0771-52-0300
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